B4米沢です。前期の研究について投稿します。
0.序
0-1.研究の背景
村野藤吾が階段にこだわっていたことは、いくつかの証言から知られる。
1964年の新建築に掲載された「日生を語る」と題した対談では「わたしは非常に階段と手摺にはやかましいのですよ」と言い、「動線の美学」にて、階段について村野は「非常にやかましく事務所で言っています。これから先まだいくらか仕事ができると思いますので、よりいいものを作りたいと思います。」と語っている。以上のことからも村野藤吾の設計した階段には、村野藤吾建築の表現において重要な要素であることがわかる。
0-2.研究の目的
村野藤吾の建築作品の階段を調査・分析することによって村野藤吾にとって建築の部分である階段が建築全体や村野藤吾の思想に起因するものであるかを明らかにすることを目的とする。さらに村野藤吾作品の階段を「形態」、「素材」、「装飾」の3点から見ることによって、それぞれの要素による特徴を分析し明らかにする。
0-3.研究方法
「動線の美学」にて、建築史家の長谷川堯によれば、村野の階段デザインは1950年代は変化に富み、特異な創意にあふれた時期であるとされる。また、1960年代の村野作品は平穏で安定した表情をもつように変化し、独自のデザインが洗練と完成を迎えるようになったとされる。しかしながらニクソン・ショックやオイル・ショックなどの影響により建設コストを下げなくてはならず、職人の手仕事による特殊な技術が用いることができなくなった。以上のことから、村野藤吾が階段のデザインに最もこだわっていた1950年代からニクソン・ショックの起こる前の1970年の作品を対象に右の図のように形状、素材、装飾の3点を文献や図面から考察する。
図1 研究ダイアグラム
1.形態
1-1.階段の形態の特徴
1950年代から1970年において「別冊新建築 村野藤吾1928→1963,1964→1974」にて取り上げられている建築作品の中で螺旋階段が使われているのは16作品あり、ことから村野藤吾は好んで螺旋階段を使っていることがわかる。(表1)
表1 螺旋階段のある作品数
作品数 | 資料から階段が読みとれる作品 | 螺旋階段がある作品数 |
45 | 33 | 16 |
特に日本生命日比谷ビル(日生劇場)や千代田生命本社ビルなどの階段は、流麗な曲線と軽快なシルエットが見られ、心斎橋プランタン(図4)の階段にはどこか躍動感のようなものが感じられる。
また、手摺の形態ついても村野の階段にはこだわりを感じられる。日生劇場のロビーの大階段は手で握る細いレール部分がダブルになった、アーチの連続形に似た側面を見せる手摺が階段の上昇につれてそのアーチが繰り返している。
1-2.階段の形態と建築全体の形態の関係
前述で述べたように、村野の階段の形態は一言で言い表すならばその曲線美にこそあるように思える。村野の設計手法として、村野は「新建築」にて、「私はかどがあるのがきらいなんです。私はもうどれでもみんなかどを取ってるんです。それで丸くする癖がありますね。そうしないとどうもなにか手ざわりが悪いような、それから心持ちがしっくりしないんです。」と語っている。また、「内の装い」の中で村野の事務所の所員である荻島は「四半世紀の長い間先生の仕事を見ていて、どの仕事でも、ひとつの型を造る時、まず先生はスケッチを描かれました。そのスケッチは夢で見ている様な絵を描かれて、それを私たちが油土で作って、それを先生が土をひねって型を整えていかれます。先生は型を決めるのに、図面より土を、とよくいわれておりました。先生はそれほど土を愛した方です。油土は限りなく自由に変化し、変化させる。この土を先生はどれほど愛したことか―。」と語っているように村野は設計過程でスケッチや油土を使っていたことからこのような柔らかな曲線だったのである。
2.素材
2-1.階段の素材の特徴
第1章同様の建築作品群のうち村野藤吾の設計した階段を構成する手摺の材質は表2のように金属製の手摺が最も多い。1950年代以前の作品では石製手摺も多く見受けられたが村野が階段デザインに変化をもたらした1950年以降からは金属製手摺が多くなってく。1965年以降徐々に樹脂製手摺が増えてきていることからも戦後、復旧するにつれ建築材料に金属を使えるようになり、さらに科学技術の進歩から樹脂の利用が増えてきていることが考えられる。(表3)
表2 素材の分類
作品数 | 資料から 手摺が読みとれる作品 |
石製 | 木製 | 金属製 | 樹脂製 |
45 | 29 | 1 | 10 | 15 | 4 |
表3 素材の時代による変遷
年代 素材 |
1950年以降 | 1965年以降 |
石製 | 1 | 0 |
金属製 | 12 | 3 |
樹脂製 | 1 | 3 |
このことから村野の階段デザインにおいて、素材の選定は時代の流れからきていることがわかる。
2-2.階段の素材と建築全体の素材の関係
「別冊新建築 村野藤吾1964→1974」の中で長谷川堯によれば村野は、他の多くの<近代>の批評者たちの場合のように、その歴史的に前例のない近代科学や近代技術を単純にまたは、一方的に嫌悪し、それを否定しようとしたことは一度もなかったといわれている。前述で述べたように村野の階段に使われる素材は時代に変化に沿ったものが使われている。そこに村野の建築思想と階段デザインとの関係があるように思える。
3.装飾
3-1.階段の装飾の特徴
村野藤吾の設計した階段の手摺には、前述で述べたように金属手摺が多く存在している。その金属手摺の多くはその階段の装飾的な役割を担うような形状をしているものが多い。第2章であげた金属手摺の中で手摺子が単純な縦桟の連なりではなく、装飾的な形状をしているものは表4から16作品中8作品が手摺子に対して何らかの形状の変化を与えている。
表4 装飾的な手摺子を有する作品数
作品数 | 装飾的な手摺子を有する作品数 |
16 | 8 |
3-2.階段の装飾と建築全体の構造の関係
村野は世界平和記念聖堂の施工の際職人たちにあえて「荒っぽく善い仕事」を要求している。それは近代の科学や工業がもたらす精密さや、幾何学的な直線直角性といったものを、外壁面の表現においてできるだけ遠ざけ、それをもっと人の手や身体の痕跡を残したい、という村野が持ち続けてきた建築美学の実現を目論んでいたと思われる発言である。村野の装飾にはこうした人との関係を大事にしたものである。特に村野の設計した階段の手摺には職人の仕事を大いに感じさせる曲線を描いたものが多い。第一章で述べた日生劇場の手摺にもみられるような人と建築との繋がりを感じさせるのが村野の建築における装飾なのである。
4.結
4-1.総括
村野藤吾の階段における「形態」の特徴は流麗な曲線と軽快なシルエット、躍動感のようなものがある点である。それは単純な定規やコンパスで描いたような線ではなくフリーハンドで描いたような滑らかな線で描かれている。「素材」について村野は時代に沿ったものを使う傾向にあった。すなわち年代による素材の変化が見えてくる。しかし単純に工業生産されたものを使うのではなく手作業によるあくまで職人の技によって現在主義者であった村野はその時々の素材を昇華させていた。「装飾」において村野は人との関係をつなぐものを作っている。それは建築とその建築を利用する人とであり、また職人のような建築を作る人と建築とをである。職人や美術家の手作業によって作られた装飾を竣工後、利用する人が安心するような細かなものを作るのが村野の特徴である。
「形態」、「素材」、「装飾」それぞれについて階段を見ていると村野藤吾の設計する作品には随所に設計手法には類似点がある。それは村野藤吾という建築家が階段づくりにかける情熱を物語っている。階段を昇降という単純な肉体的動作を通して、人の体を建築そのものの中へと浸透させ、それと同化し、それを身体化することを契機として、重要なものだと村野が考えていたからに他ならない。
4-2.展望
現代のCADソフトやCG技術によってパソコンの画面上で作られる建築よりもとにかく手を動かし作品を作り上げてきた村野藤吾の設計手法は現代の量産的な建築よりも建築に対して人に感動を与えるようなものなのではないだろうか。