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「小田原・報徳二宮神社の境界の歴史的変遷と領域の多様性に関する考察」

B4の草山です。2023年春学期に取り組んだ研究内容について報告いたします。

序章

0-1 研究の背景

 私の実家は神社である。神社とは一般的に神聖な空間とされるが、私の実家の神社には、カフェ、会館(結婚式などを行う施設)、レストランなどの神聖なものとは元来異なる領域が存在する。

一般的にそれらは神聖性を持たないとされる。しかしながら、私は普段生活していて、それらが神聖性を帯びていると感じることが多々あった。私の体験談として、神社とは無関係な普通のカフェは何度も訪れたことがあるが、それらと神社内に存在するカフェでは建築内部で感じるものが全く異なる。一般的なカフェに比べ、神社内のカフェでは、より落ち着きを感じ、特別感を感じた。それは私だけではなく、訪れる参拝客も同様である。ではなぜこのように人々は認識するのだろうかという疑問が生じた。私の考えではそれらの事象は神社内に存在する様々な領域の影響を受けたため、生じているのではないのかと考えた。

0-2 研究の目的

 神社内に存在する様々な領域を調査し、神社内にどのような領域が存在するのかを明らかにする。さらにそれらが神社内の空間にどのような影響を与えているのかを調査し、明らかにする。そしてその原理を明快にし、他の建築空間に応用する足掛かりにすることを目的とする。

0-3 研究の位置づけ

 既往研究では、神社内の領域に関する研究は存在するが、それらは神社内にカフェなどの神聖性を持たない、宗教とは全く関係のないものが存在しない神社やそれらができる前の研究である。また、既往研究では、あくまで神社内の鳥居、本殿、参道、狛犬などの神聖なものの分布とその強弱というものに言及しており、あくまで宗教建築としての研究しか存在しない。本研究では、神社に他の要素が混ざった近年に行うという点と宗教建築として研究するというよりも建築の領域性と人の認識というものの関係性に言及する研究であるため、既往研究とは異なり、新規性がある。

0-4研究の方法

  1. 一般的な神社の歴史的推移の整理
  2. 研究対象の神社の歴史的推移の整理

3) 神社内に存在する様々な領域の分布の調査と整理

4) 収集した領域のデータを照らし合わせ、考察

第1章 一般的な神社の歴史的推移

1-1明治時代以前の神社

 明治時代以前の神社では神道と仏教が混ざり合っていた神仏習合と呼ばれる状態であった。神道は仏教よりも後に生まれたものであるため、大小はあれど、仏教に影響を受けていたため、切り離せるようなものではなかった。また、現在の神社よりも活気にあふれたような状態であったとされる。

1-2明治時代~戦後までの神社

 明治元年(1868)に明治政府が祭政一致を布告し、「神仏分離令」により神仏分離を行い、神社境内から仏教要素が取り払われた。その後明治4年太政官布告第235号は官社以下の社格定額および神官職員規則によって、神道を仏教と分離し、「国家の宗祀」として位置づけされた。

 神社建築に関しては、明治後半から大正期までの神社造営をリードしていたのは伊藤忠太であり、進化主義を掲げ、神社建築の創造性、多様性に開くものだった。歴史の淘汰が答えを示すまで、建築家は過去様式の知識に基づき多様な試行錯誤を投げ込まなければならなかったからである。しかし、人々は新しい形の神社を受け入れようとせず、忠太は神社設計の表舞台から姿を消した。このあたりでおそらく神社は不安定な近代国家が必要とする文化規範としての「不変なもの」の領域に囲い込まれようとしていた。

 昭和初期には神社の権力を握っていたのは内務省神社局であり、そのトップにいた技師、角南隆のもとで肥大化し、大勢力となっていた。彼らが決めた神社様式としては、新築なら汎用性の高い流造を選び、復興・改築であれば、旧来の本殿形式を踏襲・復元するというのが暗黙の了解となっていた。「神社は変われるか」という論文にて青井はこういったことが行われた1930年代から60年代くらいまでのこうした「修正」が、実は「自然」で「不変」なものとしての神社の国民的なイメージを短期間で作り上げてきたというのがじっさいのところなのではないかというように考えているため、不変性をもつことは良い点も存在するが、同時に進化を妨げてしまうという悪い点も同時に抱えてしまってもいるのである。

1-3 戦後以降の神社

 戦後復興が落ち着いた昭和40年頃から神社は財政基盤を揺るがす環境の変化を経験し始めていた。国家神道体制下では神社は公共事業であり境内も法的に保護優遇されていたが、いまや都市化の圧力が高まれば神社も地上げにさらされる。また都心では住民の減少は氏子=財政支持基盤の空洞化である。戦争の殉死者を祀る靖国神社では遺族の崇敬は世代交代とともに途絶えてしまう。こうした動向に対して、境内を人工地盤化したり境内にビルを建設したりして駐車場経営やビル経営を導入する神社が多数現れた。あるいは信仰の脱地域化の趨勢のなかで、氏子崇敬者の参集殿を結婚式場へと転換して豪華な「○〇会館」を運営するなど、都市住民をいかに吸引するかが有力神社の課題となった。さらには虎ノ門の琴平タワー(2004)のようにピロティ状の参道による公開空地設定や歴史的な社殿の保存により容積率を稼ぎつつビル内部に社務所を確保するといった事例もあり、神社の物的環境は抜本的な変容を受け入れつつある。

第2章 研究対象の神社の歴史的推移

2-1研究対象の神社の成り立ち

 研究対象は実家である報徳二宮神社とした。御祭神は二宮尊徳であり、明治27年(1894)4月、二宮尊徳の教えを慕う6カ国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、生誕地である小田原の小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建された。

2-2 報徳二宮神社の歴史的変遷

まず報徳二宮神社がどのように変化してきたのかという歴史的変遷を調査した。

下の(表1)が主な報徳二宮神社の歴史的変遷を時系列でまとめたものである。細かな変遷なども多く存在するが今回はこの中から、

・神社創建前

・神社創建当初

・昭和44年頃~平成27年頃まで

・平成27年頃~現在

の4つの状態に分け、当時の社会的な状況、境内の環境などを調査した。

(図1) 報徳二宮神社の歴史的変遷

1) 神社が創建以前の土地(明治27年以前)

明治27年以前、報徳二宮神社創建前は小田原城二の丸小峰曲輪であった。

曲輪とは城において、主に防衛目的で築かれた土塁や土盛りを指す。城や要塞を囲むように配置され、敵の攻撃を防ぐために使用されたものである。土塁や土盛りで構成されるため、木々が多く存在しており、その当時の植生などが現在まで続いていると考えられる。

また、本殿の奥はほとんど人の出入りがないため、一番当時の状態で残っていると考えられる。

(図2) 曲輪の説明            (図3) 現在の曲輪の名残

2) 創建当初の神社(明治4年)

 報徳二宮神社創建当初の情報は資料の保存状態が良くなかったことや戦争などが理由でかなり少なかった。しかし、その中でも(図4)の当時を描いた絵が残っており、当時の境内の様子が分かった。そこから、簡単にではあるが図面に起こした(平面図1)。

(図4) 小田原城全体の模型写真

創建当初は現在とかなり異なっていた。現在の敷地境界線と境界が異なり、範囲が狭かった。社務所が中段にあり、軽いお店のようなものも存在していた。また、神池が現在とは参道を挟み反対側にあり、池も大きく石で囲まれてはいなかったと考えられる。社務所右横の道が小田原城側へとつながっており、現在とは異なる道が存在していた。

(図5)(図6)は当時のものだと考えられる写真である。

(平面図1) 当時の図面(イメージ)

(図5) 当時を描いた絵

(図6) 社務所                      (図7) 本殿と鳥居

3) 昭和44年頃~平成27年頃まで

 昭和44年に報徳会館が新設されると同時期に境内がかなり変化した(平面図2)。会館左端付近に社務所が内包され、その社務所と本殿が二階の渡り廊下を通してつながった。会館の手前には木庭と呼ばれる庭ができ、結婚写真を撮ったり、屋外で鏡開きをしたりなどができるようになった。神社全体を通し、参道が設けられ、図面右手の下段では車の発達に伴い駐車場ができた。下段の上側では会館の出入り口が設けられ新たな動線が生まれた。

 会館を建てた理由としては社会情勢がかなり関係しており、現在に比べ、人口が増加傾向にあり、人が多く、結婚式を行う人々がとても多かった点から会館の開業は合理的であった。神社で婚姻の儀を執り行い、そのまま会館で披露宴を行うという流れの繋がりからもかなり合理的であった。

(平面図2) 昭和44年頃~平成27年頃まで

(図8)入り口 昭和                        (図9) 入り口 平成

4) 平成27年頃~現在

 平成27年にカフェ、29年に新鳥居・駐車場が新設。神社中段の参道の逆側にカフェができ、新たな人の集まる場が生まれた。カフェができた理由としては、単純な人口減少していることや教会で結婚を執り行う人が多くなっているため、会館の売り上げが以前より下がったという点とコロナウイルスによって会館の利用者が激減したという点と神社にカフェがあることにより、今までは、参拝する人は流れるように敷地内を通っていたが、カフェができたことにより、その流れの中にとどまる場を作ることができるという点でカフェを建てたのではと考える。結果的に全体を通して新たな動きを作ることができたと考える。鳥居に関しては老朽化に伴い、新たに建て替えるという理由で駐車場もともに作り変えた。鳥居の場所が少し変更されたことにより、参道の位置がずれ、人の動線と車の動線を分けた。

(平面図3) 平成27年頃~現在まで

第3章 神社内に存在する様々な領域の分布

 神社内部に存在する領域は大きく分けて2つあると考える。「制度上の領域」と「概念的な領域」である。制度上の領域とは、敷地境界線や定期借地などの法律などに起因する領域であり、完全にはっきりとしている。一方、概念的な領域とは、聖と俗などの概念的なもので領域を分けたものである。捉え方などにより、領域の塗分け方にばらつきができるものである。また、さらにこの概念的な領域の中で2つの領域に分類できると考えており、それらは、「可視領域」と「不可視領域」である。可視領域とは鳥居や建物、柵、石などの何かしら見えるものにより領域を判別することができるものであり、不可視領域とは、そういった見えるものが無いものである。また、可視領域は見つけやすいもの、見つけにくいものの両方が存在するが、その数に限りがあると考える。一方、不可視領域に関しては、人の感覚や認識などといった不確定な要素に起因するものが多く、どのように考えるのか、どのように捉えるのかによって領域の数も分布も変化するため、無限にあるといえる。そのため、今回は、あくまで私が見つけられたものに関して述べる。

3-1 制度上の領域

 敷地境界線や定期借地の影響を受け、神社の領域がどのように変化したのか、どのように神社内にカフェや会館の領域が侵食したのかを時代ごとに図面を塗分け分析する。

(黄色は神社の領域、青は飲食などの別の領域という分け方で塗り分けていく。)

1)創建当初

 まず、創建当初は現在の敷地境界線に比べ、狭くなっている。さらにほとんどが純粋な神社の領域となっており、飲食系の領域は図面下の一部のみとなっている。

(平面図4)

2) 昭和44年頃~平成27年頃まで

 敷地境界線が現在と同じものとなり、敷地が大きくなった。会館と駐車場ができ、それらは定期借地に該当するため、下の(平面図5)のように塗分けることができる。こう見ると敷地の3/1が定期借地となり、純粋な神社領域というものがかなり浸食されていると分かる。

(平面図5)

3) 平成27年頃~現在

 2)に加え、カフェができ、駐車場が一新された。カフェに関しては借地の領域が増えたが、全体的にはほとんど変化がない。神社内の環境というとそれなりの変化があったにもかかわらず借地の領域の変化は少ないという歴史的変遷があったから微妙な変化となったのだと考えた。

(平面図6)

3-2 可視領域

 可視領域は地図や写真などからもある程度判別することが可能であるため、過去の状態もある程度わかる。そのため、現在から過去の順で領域を図面に示していく。神社創建前は神社の領域というものは存在しないため、創建当初から行う。

宗教領域と世俗領域

 神社には神社の儀式に関係するものとしないものが存在する。関係するものは宗教領域、関係しないものは世俗領域と分けることができる。また、宗教領域を構成する要素で大きな影響を与える鳥居をくぐる数と高低差という要素に着目し、宗教領域の深さの度合いがあると考える。

それらの領域を色分けし、説明する。

世俗領域は水色、宗教領域はピンクで表し、透明度を変化させることで、宗教領域のグレードを表現した。

① 平成27年頃~現在

 俗に関しては、カフェと会館とし、屋外空間の会館庭などは、鳥居の影響などを受けていると考え、聖の領域と捉えることとする。聖に関しては、鳥居、柵、高さなどの要素により、グレードが分かれていると考え、下段、中段、上段の透明度を30%,50%,80%(パーセンテージはイメージ)とした。本殿などの神道の要素を多く含んだものに関しては、透明度100%で表記した。

 (平面図7)を見ると、かなり聖の空間が多く存在していることが分かった。はじめは、敷地境界線と借地の色分けと似るのかと考えていたが、かなり異なっていた。

(平面図7)

②昭和44年頃~平成27年頃まで

 ある程度は①と変わらないが、カフェという世俗領域がない点と、下段に参道がないという点で違いがある。こちらも宗教領域がかなり多い分布となっていることがわかる。

(平面図8)

③創建当初

 創建当初は、ほとんどが聖の領域であった。メインの鳥居が(平面図9)の右側の入口と中央の本殿のある上段の階段の部分の二つしかないため、聖のグレードが少ないという点が挙げられる。参道は上段にしかなく、神社要素が少し少なかったと考えられるが、周りに建物が少なかった点や木々が多かった点、堀を渡り、神社に入る点から神聖さのようなものはあったのではないかと考えている。

(平面図9)

3-3 不可視領域

1) 人の認識による領域

 はじめに、研究の背景でのべたように、神社とは関係ない建物が神社と関係があるように、神聖なものであるように感じるのはなぜだろうか?という疑問に対し、それは人の認識に大きくかかわっているのではないのかと考えた。人がこのカフェのある場所が神社であると認識しているからこそ、人はそのカフェに無意識に神聖性を付与しているのであると考える。

 「街路認識における物理的要素と人の関係」という認知科学の論文によると、人々は2つの情報処理を行うことで対象を認識しているとされる。1つは、既に持っている知識を手掛かりに予測的に情報の処理を行うトップダウン処理であり、もう1つは、入力された情報の処理を逐次的に行うボトムアップ処理である。特に、仮説演繹的に情報を受け入れ、その特徴分析を行うことから、効率的な環境の認識に大きく寄与しているとされる。つまり、神社で考えると、神社というものについて認知している状態の人が、鳥居を認識するとその情報からここは神社であるというように認識するということである。

このことから、カフェなどの非神社建築が神聖性を持っていると認識する状態として、

以下の3つの状態があるのではと考える。

・あらかじめ、神社内にカフェがあると知っている既知状態

・カフェに入る前にここが神社内だと認識している状態

・カフェ内から神社を連想させるものが見える状態

である。あらかじめ、神社内にカフェがあると知っている既知状態であれば、神社内にあるカフェなのだから神聖な場所なのだろうと入る前から認識してしまうであろう。次にカフェに入る前にここが神社内だと認識している状態であれば、神社である場所にカフェがあったと認識し、その後連鎖的に神社にあるカフェなのだから神聖な場所なのだろうと認識してしまう。最後にカフェ内から神社を連想させるものが見える状態では、神聖な場所ではないカフェにいるが、外に参道、鳥居、狛犬などが見えるとする。すると人はここが神社であると認識し、そしてその中にあるカフェなのだから、ここは神聖な場所であると認識するだろう。一つ目に関しては、事前情報であるため、領域的なものでは表せない。二つ目に関しても、神社に入る際に必ず鳥居をくぐるため、領域的なものでは表せない。しかし、3つ目に関しては、領域的に表すことが可能である。鳥居などの神社に関係するものが視界に入る領域と入らない領域を塗分けることで、人の認識によるアプローチが可能だと考えた。そのため、一番非神社建築が多い現在の図面において調査していく。また、3つ目に関してだが、3つ目の状態のときは必ず2つ目の状態になってしまっているのではないかという疑問が生じるが、必ず、どれか1つの状態である制限はなく、2つの状態が被っていても良いと考える。つまり2つ目の状態のみのときよりも2つ目かつ3つ目の状態であれば、人はよりそのカフェに対して、神聖さを感じるため、そのような領域を調査することには意義があると考える。

 (平面図10)では、主要な神社関係のものを赤、それらが見える場所を黄色、特に本殿、鳥居、手水、祈禱殿、神池が見える領域をオレンジで、何も見えない領域を藍色で図示し、植物が生えているところを緑、会館のような完全な内部空間は灰色で図示した。

 これを見ると、境内のかなりの部分から鳥居などの主要なものが見えることが判明した。そのため、どこにいてもこの場所を神社として認識する可能性が高い。また、会館に関しては、灰色に塗りつぶしているが、窓から境内の様子が見えるため、この場所が神社であると認識する可能性が高いとも考えられる。

(平面図10)

第4章 考察・展望

 今回の調査では、歴史的変遷・借地・聖と俗・認識という3つの領域の分類を行った。

まず、神社の歴史的変遷について考えると、神社初期は神社に関する要素が少ないにもかかわらず、聖の領域が多いことが判明した。これの要因を考察すると、二つの要素が考えられる。一つ目は「神社以外の要素が少ない」ことである。現在などではカフェ、会館、駐車場など様々なその他の要素が入り込んでいる。そのため、神社要素を強く感じさせるためには、それらの他の要素に負けない聖の要素が必要なのである。しかし、創建当初は、他の要素がすくなかったため、少ない聖の要素でも十分にこの場が神社であり、神聖な場所であることを感じさせることができていたのではと考える。二つ目は、「境内環境の自然さ」である。この自然さとは、人工的ではないという意味である。あくまで(図4)の絵のみの判断材料となるが、神池が噴水はあれど、成型されたものではなく、自然な池のようになっている点や全体的に樹木が多く生えていたり、石などで囲ったりしていないことが挙げられる。これがなぜ、神聖さを感じさせるかというと、神道の起源の一つが自然崇拝であるからであると考える。近年の神社では自然を石で囲んだりなど、綺麗に整えられている。それは良い点でもあるが、同時に当時よりは人工的になってしまっている。そのため、人々は純粋な自然より神聖さを感じにくくなっており、より多くの聖の要素を必要としてしまっているのではないのかと考える。そのため、「自然さ」というものをいかに調整し、境内に配置するのかが今後の神社には必要なのではないかと考える。

また、創建当初のみに存在していた周辺を堀に囲まれた道から神社に入るという動作も神聖さを感じさせていたのではと考える。神池があるように人は池や湖、海なども信仰の対象であった過去がある。そのため、水辺という要素をうまく取り込むことができればさらに神聖さが出せるのではと考える。

次に、借地に関しては、当然のことだが、直接的に神社と関係のない建物などを建てる際に増えていったことがわかる。しかし、聖と俗と比較してみると、俗の空間が借地により増えているのにもかかわらず、俗の空間がそこまで増えていないことが判明した。これは借地上に建つ建物が開放的・閉鎖的なのかにより全く異なると考える。認識の領域も同様だが、建物が開放的であれば、神社に関するものや境内が見渡せることにより、聖の領域となるのだと考える。逆に閉鎖的な建物の内部では、確かに神社内部にいるが、神社要素をあまり感じられず、聖の空間だと感じづらいと考える。そのため、境内に新たに建物を建てる際は「開放的」ということがかなり重要であると考える。これは、半外部空間という外部要素を取り入れるもの、ガラス張りなどの視認性の良さを取り入れるという二つの方法があると考える。

 人の認識に関する調査では、(平面図10)にもある通り、境内の大部分が聖の要素を視認することができるということが分かったが、逆に聖の要素を見える領域と見えない領域というものを設計することにより、メリハリが生まれ、より神聖さを感じることができるのではないのかと考えた。例えばカフェに向かう道からは神社要素が木々で隠れて見えなくなっているが、カフェにつくと鳥居や本殿などの要素が見えるようにすることで、よりそのカフェが神聖な場所、すなわち神社内にあるということを強く認識させることができるのではないのかと考えた。

 今後の展望としては、今回得られた、結果を駆使し、神社設計に生かすことが望ましい。また、今回調査した領域とは氷山の一角に過ぎないため、新たな領域の分け方を見つけることも同時に望む。

参考文献

「街路認識における物理的要素と人の関係」平野勝也・渡辺佑美・白柳洋俊

「歴史的社寺建築空間における聖と俗の境界と結節空間構造についての研究」峰岸隆

「近代の神社境内の研究動向」小林章

「神社建築は変われるか」青井哲人

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